2月9日(日)「2月の法話と瞑想の会2025 死を迎える時」オンライン
ご帰国中の英国アマラーワティー僧院のアチャン・ニャーナラトー師とオンラインでつながり、月例の「法話と瞑想の会」を開催します。
今回のテーマは「死を迎える時」です。
師のメッセージをお読みのうえ、テーマに関する思いや質問、師へのご挨拶などありましたら、申し込み時のアンケートにお書きください。
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アチャン・ニャーナラトー師からのメッセージ
「死を迎える時」
今月は、死という究極の未知の出来事を前にして、その時に私たちはどうあるのか、という問い、テーマです。
「死を迎える時」ーーこのタイトルはたいへん重要ではあるのですが、触れるのを避けたいようなことでもあります。不安、心配、恐怖といった強い感情に出会うことになるかもしれない厳しさです。ですから、無理しすぎることのないようにとも思います。
一方、この毎月のオンラインの会を思う時、いろいろなテーマ、切り口で、私たちの心、生き方にあらためて出会う、そんな会として進んできていますが、死というテーマをも含むことのできる場でありたい、とも願っています。
恐る恐るでも向かってみる、ふれてみる、自覚してみる。そのことはとても大切で、尊いことであると思います。
また、死はそれほど特別なことではなくて、避けることのできない一つの場面が訪れるに過ぎない、そのように感じる方もいらっしゃるでしょう。
その時を待っている、待ち望んでいる、そんな方もあるいはいらっしゃるかもしれません。
死を迎えるその時、私たちはどうあるのか、あるべきなのか。
何があって、どうとらえて、何が準備できるのか。
そのような問いにふれる時、答えが欲しい、安心したい、安全でいたい、理解したい、と思う。
あるいは目をつぶっていたい、そんな気持ちに出会うのかもしれません。
この特別な場面でも根本は変わらないはず、ととらえることもできるかもしれません。
言い換えれば、根本であるものは「死を迎える時」でも「通用」するはず、あるいは「死を迎える時」こそ意味があるはず、とも考たくなる、、、。
その時「構える」ことはできるのでしょうか。
死を迎える時、「構える」
「何かをする」
あるいは「何もしない」のか
「何もできない」のか
皆さんの言葉を待つことにします。
「答え合わせ」をするよりも、一人一人の正直なところで寄り集まって、死を迎える時というテーマに立ち止まり、静かに向かってみる、そのような時間になればたいへんありがたいと思っています。
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日時 2024年2月9日(日)
15:30〜18:30 (途中休憩あり、最大延長19:00)
内容 法話、瞑想実践など
参加費 無料
・アクセスに必要なURLは、申込み受付のメールでお伝えします。
【重要】質問やメッセージを書かれる方へ、大切なお願い
・申し込み時の質問やメッセージを後から加筆修正したり、あらたに追加した方は、必ず事務局までご連絡ください。ご連絡がない場合は「こくちーず」のシステムの関係上、申し込み時の状態で師に伝わることがあります。
・参加の申込みは当日まで受付けていますが、質問(加筆修正も含む)はできれば開催日の3、4日前には記入されると、多忙な師が回答を吟味する時間が比較的持てます。質問をする方は、日にちに余裕を持って申込むことをお勧めします。
申込み、お問合わせ
当日の午前10時まで、申込みを受付けます
https://www.kokuchpro.com/event/702fc5a0fa3bf8b99e48a38f8f32c393/
ニャーナラトー師「2月の法話と瞑想の会2025 死を迎える時」 2025年2月9日 - こくちーずプロ
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